2017年12月2日土曜日

  タ ニ シ ど ん

 昨日の寒さはうそのように、今日は春めいた風のない日差しが窓から差し込んでいた。机の上には、首を高く突き出したシクラメンの花が四つ咲いていた。

 社員は昼食に、また、昼休みのスポーツにと部屋を出払って、一人健吉だけが妻の手作りの弁当を終わり、熱い茶をすすっていた。

 「うん、後一か月か」
近ごろ健吉はこうつぶやくことが多くなった。年が明けての一日一日がいとも簡単に無造作に過ぎて行くのをどうすることもできなかった。健吉は、この三月末日を持って定年退職の日を迎えるのである。別にこの仕事に未練があるわけでも、また、野心があるわけでもなかったが、退職の日が日一日と近づくに連れて、確かに体から力が抜けていくように思われてならなかった。

 学校を出て三十有余年、この会社一筋に、といえば格好はいいが、何度かやめて他の仕事をしたいと思いながら、とうとう定年まできてしまった。

 健吉は茶をのみ終わるとたばこに火をつけ、くるりとストーブの方に向きを変えて、プーッとたばこの煙を天井に吐き出した。

 「こんにちは、人形はいりませんかな」と、肩から白ひもでブリキのカンを下げた六十歳前後の行商人がはいってきた。
 男は、カンをあいた机の上に置くと、ポケットからたばこを取り出し火をつけた。
「ちょっと一一服させてください」と、イスに腰をおろすと健吉と向かい合った。
 「どんな人形です。」と、健吉は無愛想に一言たずねた。
 「タニシで作った人形です。私と家内と二人で作り、ひまを見ては、こうやって私が売り歩いています。去年は人形大会で、私たちの作ったタニシの人形が賞をもらいました」
 実直そうな職人気質の男のようで、自分の作った人形が賞をもらったというのも本当であろうと健吉は思った。しかし、定年退職を前にして、いまさら人形でもなかろう、買う気はもうとう見る気さえもしなかった。

 男は、二本目のタバコに火をつけた。健吉は、茶を入れ男にすすめた。
 「売れますか」
 「はい、けっこう売れましてね。病院が一番よく出ます。タニシの養殖から、人形の仕上げまで、一つ一つ根気のいる仕事です。小さいですから」
 「タニシの人形とは珍しいですな」
 「タニシという動物もかわいそうな生き物ですよ。タニシの雌は、卵をはらみ子がかえると自分の身を子に食わして子を育てる。いよいよ自分の死期が近づくと藻に子を移して、自分は自然に分解してしまう。あのかたいからもフワフワになって、水の中で溶けてしまう」
 「雄はどうなります」
 「雄は、雌のタニシが子を無事に藻に移し終わるころ、時を同じくして、いと屑のようにやせ細り、カラからすっぽ抜けて死んでしまう」

 健吉はタニシどんについての認識を改めなければいけないと思った。

 「この話は大学の教授から聞いた話で、私もタニシを養殖していますから、うそじゃありません。もっとも、私の人形に使っているタニシは死んだタニシじゃありません。死んだタニシじゃどうしてもつやが出ませんから」

 話の真実はともかく、健吉はタニシどんに深く興味を覚え、タニシドンの生き方に感激した。
 「おじさん、人形を見せてもらおうか」
 ブリキのカンのふたを開けて、ちり紙に包んだ人形をいくつか取り出した。タヌキ、船頭、おじいさんと孫娘の旅姿の三種類の人形が机の上に出された。五十円、二百円と説明がつけ加えられた。

 健吉は即座に全部買った。健吉は人形の全部が気に入った。
 ユーモラスなタヌキ、トンチのある顔をした船頭、そして悲しいまでも温かなおじいさんと孫娘の旅姿の人形。それが皆、あの悲劇の動物タニシドンから作られている。

 特におじいさんと孫娘の人形は健吉の心を打った。にゅうわな顔のおじいさんに、むじゃきな顔の孫娘が手をひかれ、これからどこへ行こうとしているのか。

 健吉は四月に一年に入学する孫の姿を思い出した。そして、五十八歳までの自分の生活を回顧した。会社のために、社会のために、家族のために自分は何をしたというのか。

 タニシどんの親は死ぬ時に言ったであろう。
 「お前たちに何も残してやることができなかった。お前たちだけが残った。お前たちも、立派な子をたくさん残しておくれよ」と。

 タニシどんの人形を見ていると、タニシの親子、タニシの夫婦に無常を感じるのである。


  自選一句

         すやすやと熊のプーさん掛け毛布


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